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伊平屋の発祥

伊平屋島の画像

伊平屋は、数千年前から人も住みついていた古い島です。島全域は、沖縄の最北端の地点に散在せる列島で、大昔から伊平屋島といわれていたのは、島の面積の大きさから取って伊平屋島と唱えられたといいます。

その内、伊平屋島・野甫島の伊平屋地方二島と伊是名島・具志川島・屋那覇島・屋の下島・降神島の伊是名地方五島、両地方合せて、「伊平屋の七離れ」と呼ばれていました。島の呼び方は色々と古書に記され、いぢへな(伊是名)えひや(伊平屋)伊瀬名(伊是名)恵平也(伊平屋)。

また、支那の冊封使が伊平屋島を葉壁山と称し金箔の書掛軸を与えられました。

由緒ある島

離島地図の画像

伊平屋は、日本史、琉球史にかかわりの深い島として知られています。
江戸時代の学者藤井貞幹は『神武天皇の母玉依姫は、海宮(あまみ)の玉依彦の娘、豊玉姫の妹で、海宮とは、琉球国の恵平也(伊平屋)島』と唱えています。
琉球史においては琉球五王統のうち第一王統の祖先、屋蔵大主が伊平屋に住み、第二尚王統の尚円王は、伊是名島に産れ、二王統の発祥の島として賞讃されています。尚円王が王位につかれてから、その姉君を、伊平屋アンガナシとして、神職を与えて、島の根神の統治にあたらせ、尚円王の即位後も王発祥の地として、毎年もち米とうるち米の玄米を粒選らび、各三斗づつ御初米として献上。それが昭和六年まで続いていました。

戦前の伊平屋

戦前の伊平屋村の画像

明治12年の廃藩置県により、琉球藩が廃止され、沖縄県として日本国の制度のもとスタートすることになりました。明治42年4月1日村制施行、「伊平屋島」を「伊平屋村」、「伊是名島」を「伊是名村」と改称。間切が村となり、これまでの村が字になりました。当時の字は、我喜屋、島尻、野甫、田名、田名から分割した前泊の五字でした。伊平屋村役場は、伊是名村字伊是名に置かれ、初代村長に島尻出身の諸見守蔵氏が任命され村行政を施行しました。

村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。

しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。
伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。

昭和14年7月1日、伊平屋村誕生、初代村長に諸見清吉就任、伊平屋尋常小学校内に事務所を設置。行政運営は財政が脆弱なため幾多の困難を余儀なくされたが、村民一丸となり、離島苦解消のため航路船の購入、昭和15年5月に住民の奉仕汗の結晶により新庁舎が完成し、行務を執いました。

昭和16年5月17日不運にして庁舎失火により建物、書類一切を全焼、分村後の大きな損失を被ったが国、県の指導に従い援助を経て対策を講じ、行政事務の充実を図りましたが、県より経済更生村に指定され、その主旨に従い村民を督励して増産体制をとり、米作、養蚕、さとうきび甘薯等の生産強化により、昭和 16年4月1日農林省主催の全国米作共進会で沖縄県より米作増産の一等賞に表彰され、自給自足が可能な村として称賛されるまでになりました。

戦中の生活と米軍上陸

米軍上陸の画像

昭和16年12月8日大東亜戦争勃発。物資統制令により、米作農家に増産体制の強化と割当配給制、強制供出米を徴収され(昭和20年終戦時まで続く)、流通機関も絶え苦難な戦争中の生活を余儀なくされ、戦況はますます激化の一途をたどっていました。

昭和19年には、本村も始めて空襲され田名集落で数棟焼失、同年6月3日、突如米軍機動部隊が当村に上陸し、空中射撃や艦砲射撃により、40余名の村民の犠牲者と全て焼土に化し米軍占領統治となり、米軍使役労務に強制従事させられる。

同年11月22日米軍が、伊平屋から引き揚げたことで村民収容解除され、田名より各集落へ復帰し戦後の混乱期の生活が始ました。

戦後の伊平屋

戦後の伊平屋

昭和21年、沖縄諮詢会の時代米軍の施政権下にあって地方行政の改正と変遷を経て自治の進歩と諸産業も斬次進展し、生活も進歩していきましたが、まだまだ幾多の困難な問題があり、占領施政権から脱却して本土復帰の運動が高まり、昭和47年5月15日念願の本土復帰になり、諸制度が適用されています。

昭和46年1月15日国務大臣山中貞則ご来村、沖縄復帰担当大臣村内ご視察、村の要請を快諾、離島苦解消のため野甫橋架橋建設を決断され村民に公約、実現の糸口となり、昭和47年10月より調査実施、同49年より工事施行、同54年6月19日夢の架橋野甫大橋が開通し野甫島が道路により結ばれ利便となる。

村は復帰後の新しい制度に適用するため、総合計画基本構想を設定(昭和52年12月23日)に基づき農林水産業の基盤整備、道路、建設、環境整備、航路交通の整備、空港設置要請、教育施設等の整備に同52年より着手、同55年、過疎振興計画の策定適用によって、補助事業を積極的に促進し、整備を推進している状況であるが財政が脆弱のため自主財涯に乏しく困難な財政運営を余儀なくされているが地域住民の定住と生活の安定のため生産基盤の確立と諸産業振興を図るため諸事業を選択して推進しています。

伊平屋村、伊是名村が分離、分村して、平成元年7月1日を以て50周年の時代の節目を迎え、幾多の困難と世代変遷を経て早カされた当局先輩諸氏村民の労苦に対し敬意を表し、一層行政の高率と地域住民福祉向上を図るため分村50周年記念事業として鉄筋コンクリート2階建、役場庁舎の建設、21世紀に向けて活力ある「快適で豊かな生産活動が出来る村づくり」を目指して推進しています。

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